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堺市立 金岡北中学校 ラグビ-部

心身ともにたくましい男子を目指します!!

JAPAN

五郎丸 仏強豪トゥーロンと2年契約か 現地テレビで報道
フランスのテレビ局「カナル・プラス」は14日(日本時間15日未明)、同国のラグビーのプロリーグ「トップ14」の強豪トゥーロンが、日本代表FBの五郎丸歩(29=ヤマハ発動機)と2年契約を結んだと報じた。
五郎丸は今月下旬に開幕する世界最高峰リーグ「スーパーラグビー」のレッズ(オーストラリア)に加入し、13日にプレシーズンマッチに出場。8月上旬のスーパーラグビー閉幕後、同下旬に開幕する16~17年シーズンからトゥーロンに加わるとしている。同時期には日本のトップリーグも開幕するため、トゥーロンでのプレーを優先すれば、2シーズンは日本国内でのプレーから離れることになる。
トゥーロンと五郎丸をめぐっては、昨年12月下旬に同国のラグビー専門紙が「トゥーロンが五郎丸に獲得オファー」と報道。一報を受けて同26日には五郎丸自身が「初めて聞きますが、海外からオファーをもらうというのはうれしいので実現すればいいですね」と契約に前向きな姿勢を見せていた。同チームは近年、南アフリカ代表WTBハバナやニュージーランド代表CTBノヌーなど世界的プレーヤーを次々に獲得するなど、世界屈指の資金力を誇るラグビークラブの一つに挙げられている。
トップ14は1892年に発足した世界でも最も歴史のあるリーグの一つ。1シーズンは約10カ月と長く、世界最大規模の観客動員数と収益力を誇るリーグとしても知られている。
















サンウルブズ初実戦は反省点つきの大勝。トップリーグ選抜のアピールは…。
強気のランが光ったサンウルブズのFB山下一

<トップリーグオールスター FOR ALL チャリティーマッチ2016>
サンウルブズ 52-24 トップリーグXV
世界最高峰のスーパーラグビーへ日本から初参戦するサンウルブズが、開幕前唯一の実戦で大勝した。

「信頼に貯金があるとしたら、いまはゼロだ。きょうから積み重ねる」
会場へ向かう前のホテルでこう発したらしいマーク・ハメット ヘッドコーチ(HC)は、こう振り返った。

「スーパーラグビーはフィジカルなゲームが多くなる。トップリーグ選抜がフィジカルなゲームをしてくれてありがたく思っています」
トップリーグ選抜は、「ビートウルブズ」を合言葉としていた。

特に身長177センチの狩人であるFL金正奎、トップリーグの新人賞を獲得したLO小瀧尚弘らは、サンウルブズ入りへのアピールを狙っていた。実際、守備時の肉弾戦で魅せた。
自陣で張り付けにされた前半23分、密集近辺をじわじわと攻めるサンウルブズを向こうに接点に頭をねじ込む。サンウルブズが何とか止めを刺そうと、左タッチライン際のWTB笹倉康誉に球を託す。が、密集に先発のFL金が手を伸ばす。球を手離せないノット・リリース・ザ・ボールの反則を誘った。
さらにLO小瀧は前半34分にグラウンドに現れるや、得意のチョークタックルで何度も相手ランナーをつかみ上げた。少人数でテンポよく球をつなぎたいサンウルブズの目論見を鈍らせたからか。ロスタイムを経て約6分後に迎えたハーフタイム、ハメットHCはこう言ったようだ。

「つかまれないよう、サポートを速く」
サンウルブズのLO大野均の述懐。
「入ってすぐに抱え上げて…。小瀧の名前こそ出なかったですけど、『あれを、どうにかしろ』と。数分でそんなインパクト。そのうち(サンウルブズへ)呼ばれるのかな、と」
勝負は、サンウルブズが制した。
レギュラー格が並んだ前半はSOトゥシ・ピシのランとキックパスなどで26点を奪取。後半も2日前に合流したWTB山田章仁が、攻守逆転からの大きな突破に反応して2トライを決めた。個々の才気が光る一方で、チームが準備した攻撃プランに手応えをつかんだ様子だ。


昨季まで活動していた日本代表と同様にシェイプと呼ばれる複層的陣形を用いる。ただ、15人全員が球の出先を追うのではなく、グラウンドの左右どちらへ球を振っても誰かがいるよう人員を配置させる…。
「少し効率のいいようなアタック。そんななかでも1人ひとりの判断が重要です」
CTB立川理道がこう説明すれば、HO堀江翔太主将はこんな展望を明かしていた。
「戦術略は上手くいったかな、と。あとはもっと選手がわかりやすくなるよう、話をしていきたい」

本番では南アフリカカンファレンス1に入る。過去優勝3回のブルズなどと同組だ。比較的小柄な新参者としては、この日の主力交代後に覗かせた連携不足からのミスは命取りとなろう。SH日和佐篤も「リンクのところでのミス。これがあると、(大きな相手に)差し込まれてしまう」と警戒する。
歯ごたえのある面子とやり合って収穫と課題を得た極東のヤングクラブは、2月27日の初戦に向け急ピッチで準備を進める。

空前のラグビーブームに日本中が沸くいま、”強い”ジャパンを作り上げたある銀行マンの生涯が、ビジネスパーソンからの熱い共感を集めている。
宿澤広朗、天才ラガーマンにして三井住友銀行専務取締役。1989年、世界8強のスコットランドを相手に日本代表の歴史的勝利を導いた名監督だ。その知られざる苦闘の生涯を掘り起こした傑作評伝が、彼の没後10年を経て文庫化された。
加藤仁『宿澤広朗 運を支配した男』より、第一章「伝説の男」を公開!
28000人の「シュクザワ」コール
その日、5月28日は、日本のラグビーファンにとって、どれほど幸せな一日であったことか。宿澤が代表監督をつとめるジャパン(代表チーム)の初陣、テストマッチに日本全国のラグビーファンが酔いしれた。
対戦相手は、世界ラグビーの最高峰に位置する強豪スコットランドである。国際ラグビーボード(IRB)の宗主国の8強(イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド、フランス、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド)と日本のテストマッチは、昭和46年以来おこなわれてきたが、それまでの18年間、日本代表は一度も勝ったことがなかった。
ところがその試合は、前半の開始早々から好タックルでスコットランド代表の動きを封じ、山本俊嗣(サントリー)のPG(ペナルティゴール)で先行した。そのあと17七分に吉田義人(明治大学)が初トライ、日本代表が前半を14点差でリードするという予想外の展開を見せた。
後半に入るとスコットランドが猛反撃に転じたが、耐えに耐えた日本が28-24でノーサイドに持ちこんだ。28戦目にしてラグビー宗主国にはじめて勝利をおさめたのである。28000人の観客からは「シュ・ク・ザ・ワ、シュ・ク・ザ・ワ」「万歳、万歳」の大合唱が巻きおこり、宿澤広朗の小柄な身体が二度、三度と宙に舞った。
「お約束どおり勝ちました」
これが試合後に発した宿澤の第一声であった。
理由がある
この大金星は、いまもラグビー関係者の記憶に鮮明に刻まれている。
明治大学および新日鐵釜石で活躍した「ヒゲの森」こと森重隆は、
「宿澤さんは銀行員としてロンドンに駐在して、帰ってきた。指導者としての経験が皆無なのに、いきなり日本代表の監督にするとは、なんて協会はいい加減なことをするのだと私は腹を立てたりもしました。ところが手品みたいに勝ってしまった宿澤さんを見て、よくまあ短期間のうちに選手と心が通じあえたものだなあと感心しました。それと同時に、クールにポッと勝ってしまったような印象もうけて、はたして宿澤さんには熱さがあるのかなぁと思ったりもしました」
と思い出を語る。森が思うほど宿澤が「クール」でないことは後述する。
慶応大学ラグビー部OB倉本博光は、
「私はオランダにいて仕事中でして、その試合を見ておりません。しかし、かねてからの知りあいだったスコットランドラグビー協会の理事が、職場のモニターに試合経過をテレタイプで流してくれていました。最後に“(スコットランド)監督の弁明がたのしみだ”と結ばれていたのを記憶しています。ぼくは大喜び、宿澤率いる日本の勝利がうれしくてしかたなかった」
と言う。翌日、衛星版の邦字新聞の見出しには「奇跡」「快挙」の文字が躍っていた。
当時、報知新聞の記者だったスポーツジャーナリストの柏英樹は、
「日本代表監督として宿澤さんは“善戦でおわってはいけない。勝たなければ駄目だ”とよく言っていた。“運は努力で切りひらいていけるものだ”というのが口癖でした。当時、早稲田ラグビー部にあらずんばラガーにあらず、ということで日本代表に早稲田メンバーを入れるのが慣わしでもありました。しかし宿澤さんは中央だけでなく地方の試合も見にいき、公平に選手を起用していました」
と語る。後述するように、柏はスポーツ紙の記者として大学に入学してまもないころから宿澤を知るだけに、この勝利の歓びは他の記者に倍するものがあった。
早稲田大学ラグビー部で宿澤の二年後輩だった石塚武生は、
「宿澤さんは戦う前から“スコットランド、弱いなぁ”と言っていましたね。相手の戦力を分析して勝つ自信があったのですよ」
と言う。石塚にとって宿澤は、亡くなるまで善き兄貴分でありつづけた。
 なぜ無名選手を代表に?
日本ラグビーフットボール協会の強化委員長(監督兼任)をつとめた日比野弘から宿澤広朗が「ジャパンの監督をやってみないか」という打診をうけたのは、この年の2月中旬のこと。
当時、資金為替部という職場でドル/円を売買する統括責任者という重職にあった宿澤は、銀行の諒解を得られないと思っていたようだが、当時の住友銀行会長で大のラグビー好きだった磯田一郎が理解を示し、監督に就任することになった。
私が取材した住友銀行の先輩社員は、
「監督になってからも毎朝出社して、資金為替部の同僚に“きょうの相場は、どう?”なんて声をかけていた。そうして練習に出かける。だれに命じられたのでもない、為替ディーラーとしての現場感覚が失われないよう、彼なりにそうしていたのでしょう」
と言っていた(監督業とディーラーの兼務は至難の業と見たのか、翌年から銀行側の配慮によって資金為替部を離れることになった)。
ジャパンの代表監督として、まず「外国人に通用する強さかスピードがある」「ディフェンスがつよい」という二点を基準にして選手を選抜する。公平な選抜を心がけ、三菱自工京都の田倉政憲と東芝府中の梶原宏之という無名に近い選手をジャパン入りさせて、関係者を驚かせた。
宿澤は自著『TEST MATCH』(講談社刊)のなかで、どのような準備をしてスコットランド戦に臨んだかを述べている。この本は、担当編集者によると口述筆記ではなく、宿澤みずから筆をとって一気に書きすすめたという。
《“絶対に勝て”とか“死ぬ気でがんばれ”とか言うのは比較的やさしいことである。また、そのような言葉で選手の気力を向上させることも容易な場合がある。/しかし本当に必要なことは“絶対に勝て”ということより“どうやって”勝つのかを考え指導することであり、“がんばれ”というなら“どこでどのように”具体的にかつ理論的に“がんばる”のか指示することではないだろうか》
宿澤には、銀行員として7年半イギリスに駐在した経験があった。この間、本場のラグビーを見つづけ、ひとつの確信を抱いた。国際ゲームにおいては失点を20点前後に抑えなければ勝機がないという冷然たる事実である。
それゆえジャパンには20点以上をゆるさないディフェンスの整備が急務であった。宿澤が理想としたのは、相手を20点以内に抑え、数少ないチャンスをものにして20点以上を取る戦法であった。
《あまりに時間が不足していた。新しい戦法を完全に使いこなすには最低6ヵ月の時間が必要であるが、スコットランド戦まで6週間しかなかった》
しかし方針を打ちだし、短期間のうちにチームをまとめあげるのは、後年に銀行内でも見うけられるように、宿澤の得意技でもあった。
若返り
宿澤は情報の収集・分析・活用(伝達)に力を注いだ。スコットランド代表チームは来日すると、ジャパンチームとのテストマッチまでに関東代表、九州代表、23歳未満代表、関西代表との4試合を戦った。
これらの試合を観戦するだけでなく、ビデオによる戦力・戦法の分析を徹底的におこなう。スクラムが何回組まれていくつボールを取ったか、スクラムから地域ごとの攻撃方法はどうか、ラインアウトの総数、密集でマイボール・相手ボールの獲得数、スローインの場所、モールとラック時のボール獲得数……等々。
分析の結果、スコットランドのディフェンスが弱いという点に着目し、そこを徹底的に突くことにした。
宿澤は、日本代表が集合した初日から試合前まで終始一貫して言いつづけた。「スコットランド戦は勝ちにいく。相手は第二線防御が甘く、ジャパンのバックスで25点は取れる。だから失点を20点に抑えれば必ず勝てる」と。繰りかえし言われると、選手たちも「勝つ」ということが実感として受けとめられるようになったという。
試合の前日、スコットランドチームは秩父宮ラグビー場で秘密練習をおこなった。宿澤は伊藤忠商事のラグビー部を通じて12階の一室に入れてもらい、その練習を双眼鏡で見つめた。それまでとは異なる攻撃を仕掛けてくるのではないかという懸念は払拭されたし、ジャパンの選手にとってなによりプラスになったのは、この偵察によって「おれたちはここまでやっているのだ」という、勝利にたいする監督の執着と情熱が伝わったことである。
そして宿澤の目論見どおりに快挙を成しとげた。
ジャパンのキャプテンをつとめた神戸製鋼の平尾誠二にとって、宿澤広朗は兄貴のように接することができ、ほぼ対等に語りあえる監督であった。平尾は宿澤の人柄にふれながら、スコットランド戦を語ってくれた。
ある日、神戸にいる平尾のもとに宿澤から電話が入った。
「代表監督をつとめることになったので、キャプテンをやってもらいたい」
すでに宿澤の監督就任については噂が飛びかっていた。それまで代表監督といえば、当時26歳の平尾からすると「父親」のような年齢であったが、平尾と宿澤は12歳の年齢差しかない。宿澤のような若い監督が采配をふるうようになればいいと思っていると、その宿澤が気さくに電話をかけてきたのである。
平尾はキャプテン要請をとりあえず承諾したが、チームづくりやゲーム運びなどについて、監督・宿澤がどのような考えを持っているかを知るべく後日会って話を聞くことにした。
「自分なりに納得できました。いい意味でも悪い意味でも、宿澤さんは海外生活が長い。日本のラグビーや選手についても、よく知らないようでした。逆に言うと、日本ラグビー界のしがらみもなく、チームづくりができるということですよ。当時、神戸製鋼も勝ちだして、ぼくもそれなりに自信を持ちはじめていた。うまくやっていけそうでした」
あとでわかったことだが、もしも平尾が断れば、さらに後輩の堀越正巳をキャプテンに据えるつもりでいた。それほど宿澤はジャパンの若返りを考えていたのである。
キャプテン平尾とカラオケ対決!?
カリスマ性のある「父親」ではなく、なんでも語りあえる「兄貴」としての監督の出現は、キャプテン平尾を闊達(かったつ)にふるまわせた。
たとえば平尾が「朝の散歩はやめましょうよ。子どもの修学旅行じゃあるまいし、あんなの意味ないですよ」と言う。代表チームは、毎朝7時に起床すると、朦朧(もうろう)とした眼でぞろぞろと一団になって散歩をおこなっていた。そのあと宿舎に帰ると、また寝て、そして練習に臨む。それほど意味があるとは思えない散歩であり、選手たちも違和感をおぼえながら口に出しかねていたのだが、平尾は提言したのである。
「そうだな、やめよう」と宿澤は言い、あくる日から朝の散歩は廃止された。しかし宿澤は、選手起用など試合の要諦にかかわる点となると自分なりに細部にいたるまでこだわった。
宿澤と平尾は、兄貴分と弟分のような関係を築いてゆく。平尾は冗談まじりに「組長と若頭やね」とも言う。選手はまとまり、練習中も笑いが絶えないチームに仕上がっていった。
宿澤は平尾について《“さらっと”自分のキャプテンシーを発揮できる種類の人間である。/プレーも一流、背も高く(引用者注・平尾の身長は183センチ)、顔も良い、そんな平尾に何か欠点があるのではと密かに考えていたが、なかなか見つからない》と書いている(前掲書)。
さらにつけくわえると、平尾は中学、伏見工高、同志社大学、神戸製鋼と所属したすべてのチームで日本一に輝いた。これでは監督である自分よりもキャプテン平尾のほうが、選手たちから一目も二目も置かれてしまう。宿澤は自他ともにみとめる負けず嫌いである。監督たる自分がなにもかも凌駕され、卑屈になりかねないと思ったのか。
宿澤は銀行の同僚にこう言っていた。
「“あいつは上手い”と思ったとたん、こっちの気持ちが萎縮する。平尾、堀越、松尾(雄治)のプレーを最初に見たとき、そんな気持ちになったなぁ」

以下、笑い話のようではあるが、平尾の《欠点》は、音痴ということにあるのではないかと宿澤は考え、飲みに誘い、カラオケを歌わせることにした。平尾の音痴をからかいの材料にしようと思いたったらしい。
では、宿澤は歌が上手いかというと、下手である。後年のことだが、銀行の部下に「おじいちゃん(父親)から人前で歌わないように言われているんだ。歌が上手くなるのなら、100万円出してもいいね」と語っている。それでも、平尾とカラオケ合戦をしたのは、平尾につけこむ隙がそこにあると宿澤は見た。つまり、自分に「勝機」があると考えたのである。
平尾はその場面を鮮明に記憶しており、笑いながら言う。
「ぼく自身、歌が上手いと思っていない。平尾は音痴だという情報を宿澤さんはどこからか仕入れていたらしく、それで優位に立とうと思ったのでしょうね。それにしても宿澤さんがカラオケをやるとは、ぼくは思ってもいなかった。まず宿澤さんが歌い、そのあと“お前、やれ”となる。こうなると体育会系の先輩後輩の"のり"ですよね。仕方なく、ぼくはサザンを歌った。そうしたら周りのウケが宿澤さんよりいいんですよ」
宿澤の「なごり雪」につづいて、平尾が「いとしのエリー」を熱唱すると、客たちは静まりかえって聴きいり、おわると宿澤以上の拍手喝采が沸きおこった。
宿澤は憮然(ぶぜん)として平尾に言う。
「お前、上手いじゃないか……。おう、帰るぞ」
こうした他愛のないカラオケ勝負においても悔しがる宿澤の無邪気な個性は、平尾をはじめ選手たちにさらに親近感をおぼえさせた。当初、平尾は「宿澤さん」と呼んでいたが、いつのまにか「おっさん」となった。
のパターン
平尾によると、宿澤は合理的ではあってもクールではなく「熱い男」であった。
「負けるとかっかしているし、しょっちゅうキレていました」
ただし熱くなっても、すぐに切りかえて冷静になれる男でもあった。
スコットランド戦の前半を20-16と14点差で終了すると、宿澤の興奮ぶりが見てとれた。ハーフタイムのとき、宿澤は選手を前にして「いけるぞ」「この調子でいけ」「おう、いくぞ」とわめくように檄を飛ばしていた。選手も高ぶり、「いくぞ」「いくぞ」である。しかし平尾は、前半のように後半もいくはずがないと冷静に見ていた。
「前半のリードは、できすぎやと思いましたね。後半は相手も物凄く眼の色を変えてくるにちがいありません。すでに、こっちはみんなバテバテだし、きつい試合になるはずです。後半もおなじ調子で立ちむかうと、危ないなぁとぼくには思えました。だから宿澤さんや選手のいるところで“これ(14点差)をうまく食いつぶしていこう。点を取られても気にするな。1点差でも勝ちは勝ちや”と言いましたよ」
ここで平尾は、宿澤の言う《自分のキャプテンシー》をさらりと発揮して、興奮のあまり勝ちパターンを見失いそうになった「組長」を「若頭」として補佐している。相手の猛攻をかわすにしても、失点を恐れるあまり力みかえってばかりいては、逆に玉砕しかねない。平尾は「14点差あるんだから、こちらは息をつぎながら、相手がバテるのを待つのがいい」と訴えた。
平尾の言葉を聞いて宿澤も冷静さを取りもどし、「そうだ、耐えるんだ」と言い放つ。そして後半では貯金を食いつぶしながら最後の一線は死守し、結果は28-24の歴史的な大勝利をおさめたのである。
このスコットランド戦は、日本ラグビーが強豪国に勝つひとつのパターンを明確に提示した。しかしこのパターンが、その後も引きつがれたかというと、前述した世界の8強に勝ったのはこの1回だけである。
「条件がそろわなければ、この勝ちは繰りかえすことができません」
と平尾は言う。その条件とは、事前に偵察するなどホームのアドバンテージをかなり活かせたこと、涼しいスコットランドにくらべると日本は蒸し暑い時期にあったこと、相手方の主力選手がべつの遠征にとられて「一・五軍」が出場したこと……等々。ただし相手がベストメンバーでないからといって、日本がまともにぶつかっても勝てないことは明らかであった。
「宿澤さんは、どういう状況になれば勝てるかを具体的に把握していた。その考えと練習のやり方が卓越していました」
管理職として、部下を自分色に染めてはいけない
どのような監督であっても勝ちにこだわる。しかし宿澤は、さらに日本が勝てる具体的な状況を想定し、練習を重ねたのである。前述したようにこのテストマッチの前にスコットランドが日本で4試合を戦ったことにより、宿澤は相手を丸裸にできた。
関東代表を9-18の大差で破るような試合を観戦すると、絶望感に浸ることにもなりかねないが、自分たちの勝ちパターンを想定していた宿澤と平尾には、そういうマイナス思考はいっさいなかったという。
「ここは通用する、こうなったらきついぞ、という具合にシミュレーションを重ねながら練習を構築していきました。宿澤さんは選手を自分の好みの色に染めようとする監督ではない。そういうことから脱皮した最初の監督でもあります」
平尾は宿澤を礼賛してやまない。後述するが、銀行においても部下を自分の好みの色に染めるような管理職ではなかった。
スコットランド戦の日、タッチジャッジをつとめた真下昇は、
「勝ちが決まったときは、思わずガッツポーズをしてしまいそうになり、中立であるべきタッチジャッジとして必死にこらえたものです」
と回想する。後年、この真下が日本ラグビーフットボール協会の専務理事に就任すると、日本ラグビー界の改革をめぐって宿澤と対立し、真下は宿澤シンパの協会関係者から「天敵」と呼ばれるようになる。対立が激化した結果、協会から追放されるようにして宿澤が理事を辞任した事実については後述する。
いずれにせよ、ことスコットランド戦となると、いまもだれもが熱く、たのしそうに思い出を語っていた。
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  1. 2016/02/15(月) 03:16:40|
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Author:kanakita
大阪府堺市立金岡北中学校ラグビー部です。部活動以外の行事なども写真&動画レポートします。よろしくお願いします。

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