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堺市立 金岡北中学校 ラグビ-部

心身ともにたくましい男子を目指します!!

ワールドカップ


薫田真広(くんだ・まさひろ)
生年月日:1966年9月29日。岐阜県出身
日本代表キャップ数:44
RWC出場歴:1991、1995、1999
ポジション:HO


ラグビー略歴:岐阜工業高校→筑波大学→東芝(1988~2000)。高校日本代表、U23日本代表、日本B、日本選抜。東芝ブレイブルーパス監督、U20日本代表監督などを経て、現在は、ラグビーワールドカップ2019日本代表戦略室長
東芝府中の監督として数々のタイトルを手にした薫田真広さんは、1995年RWCの日本代表キャプテンを務め、44キャップを獲得した名HOでもありました。178㎝、97㎏というサイズに似合わぬ俊敏な動きで注目され、筑波大学在学中に日本代表入り。どのレベルでもリーダーとして仲間の信頼を得てきました。現在は、ラグビーワールドカップ2019日本代表戦略室長の要職にあります。現役時代の実感から現在の立場で痛感することまで幅広く語ります。

印象深いホワイト・シャークの巨体
情報戦の進歩を痛感した1995年大会

初めてのテストマッチは、1990年のサモア戦(1991年RWCオセアニア・アジア予選)でした。RWCを意識し始めたのはこの頃です。それまでは藤田剛さん(明治大学OB、当時日新製鋼のHO)という壁があった。 僕は高校3年の花園(全国大会)ではNO8で、高校日本代表からHOになりました。HOの経験の浅い僕が、藤田さんに勝とうなんて、まだ考えられなかった。日本代表では、藤田さんにスクラムの駆け引きなどいろいろと教えてもらいました。
ただ、宿沢広朗監督(故人)は若い選手を積極的に起用しようとしていて、1991年のRWCでは初戦のスコットランド戦に先発することができました。
強烈に印象に残っているのは、「ホワイト・シャーク」と呼ばれたスコットランドのFLジョン・ジェフリーですね。
190㎝以上あるジェフリーが日本のラインアウトのとき、一番前に立って両手を上げるのです。するとスロワーの僕からは、日本のジャンパーである林敏之さんがまったく見えない。当時はリフティングもなかったので、自力でジャンプする時代です。スコットランドは日本のラインアウトを分析していたということです。日本代表もツーメン(2人で並ぶラインアウト)で対抗しました。
僕が出場したRWCでは、1995年のオールブラックス戦の大敗がありました。
あの試合で、オールブラックスはキックオフのレシーブでジャンパーをリフティングしました。おそらく、RWCで初めて行われたことだと思います。トライをされるたび、日本代表のキックオフを、ものすごく高い位置でキャッチする。どうにもなりませんでした。そして、NO8ジンザン・ブルックが20m以上のパスを放る。そのスピードにもついていけない。初めて体験することとばかりです。僕にとっては、それがRWCなのだという印象があります。
オールブラックスには145点取られてしまったのですが、もし、日本がゆっくり試合をしていたら、そこまでの点差にはならなかったと思います。僕はキャプテンとして、逃げて時間稼ぎをするよりも、自分達が練習してきたことがどれだけ通用するか、トライを狙っていこうとみんなに言いました。その結果がどう影響するかなど、その試合の中では考えられなかったですね。
1995年まではまだラグビーのアマチュア時代です。しかし、世界の強豪国はプロ的でした。この大会のウェールズ戦の後、ウェールズのアナリストに、「僕は君のスローイングの距離など、すべて知っている」と言われました。そういう情報戦はすでに始まっていたということです。

スクラムの軸足のスパイクが壊れる
予感が現実になったスコットランド戦

1999年のRWCは、アンガス(アンドリュー・マコーミック)や、ジェイミー・ジョセフ(元オールブラックス)などが日本代表入りし、トップレベルを経験している選手も多かった。情報戦でもテクニカルの勝田隆さんが率先して情報収集をしていたので、この点は日本の他のスポーツよりも進んでいた気がします。
僕自身が出場したRWCで、プレーしていて楽しかったのは、1991年大会のアイルランド戦ですね。いいトライもとれたし、会場(ランズダウンロード)の雰囲気も良かった。RWCの雰囲気、本場のラグビー文化をひしひしと感じた試合です。個人的なプレーはあまり印象に残っていません。
1995年大会は、キャプテンとして参加しましたが、ポスター1000枚くらいに、全キャプテンがサインすることがあって、あれは大変でした。
それと、実は一番心に残っているのは、1991年のスコットランド戦の出来事です。あのとき、なぜか試合前にスパイクが壊れるような気がして、事前にメーカーの担当者の方に予備のスパイクを持って来てもらうに頼みました。これまで壊れたことはないし、担当者の方も結局持って来なかったのですが、そうしたら、開始1分で左足の外側のところが足が出てしまうくらい破れました。スクラムの軸足だから一番大事なところです。たぶん踏まれたのだと思いますが、仕方がないからテーピングをぐるぐる巻きにしてプレーしました。なぜそう思ったのか、いまだに分からないし、不思議でしたね。あれ以降、自分で必ずスペアのスパイクを持って行くようになりました。

1995年のRWCで考えた
日本代表選手としての責任の取り方

日本代表のキャプテンは、僕から元木由記雄(現RWC2019アンバサダー)にバトンタッチしました。その時、河野一郎さん(現日本スポーツ振興センター理事長)に言われたのは、「日本ラグビーの悪いところは、ベテラン選手が若い選手が台頭すると引いていってしまうこと。その経験を若い選手にどう伝えるかを考えないといけない。それをぜひやってください」ということです。
元木からも、バイスキャプテンをやってくれませんか、という話がありました。自分の経験を伝えて行くことが、代表選手としての責任だと感じました。
2019年に日本でRWCが開催されます。僕は今、ラグビーワールドカップ2019日本代表戦略室長ということで、才能ある選手の発掘と育成をしているのですが、この戦略室は2013年に立ち上げられました。当然、5年や6年で次々に選手が育成できるわけではありません。2023年、その先も視野に継続していかなくてはいけない作業だと思っています。
大切なことは、2019年以降をどうするのかということです。日韓共催のワールドカップ(2002年)から10年が過ぎ、たくさんの日本人サッカー選手が海外のクラブでプロとして活躍しています。日本ラグビーも2019年で刺激を受けた子供達をどう強化するか。未来の日本ラグビーをどうしていくかを考え、そのための仕組みを作らなくてはいけない。そこに危機感を持つことが一番大事なことだと思っています。








麻田一平(あさだ・いっぺい)

生年月日:1980年6月26日。大阪府出身

日本代表キャップ数:0

RWC出場歴:2011

ポジション:SH

 

▼ラグビー略歴:大阪・豊中ラグビースクール→大阪工業大学高校(現常翔学園)→法政大学→トヨタ自動車ヴェルブリッツ(2003~)。高校日本代表、U19、U23日本代表、日本A代表、日本代表

 

冷静な判断力と正確なパスさばきでチームメイトを走らせる麻田選手は、トップリーグで10年以上プレーする今、いぶし銀の輝きを放っています。名門・大阪工大高、法政大学で活躍し、高校日本代表から各レベルの代表に招集されてきましたが、日本代表入りは、わずかな期間に限られています。それでも、世界の舞台で戦う目標に向かって挑み続けた時、チャンスが巡ってきたのです。

 

怪我でチャンスを逃すも、あきらめず

驚きの追加招集でニュージーランドへ

  僕は4年前、2011年のニュージーランド(NZ)でのRWCに追加招集されました。 知らせを聞いた時は「マジか?」ととても驚きました。

9月16日、7-83の結果になった日本代表(ジャパン)とNZ代表(オールブラックス)の試合は、愛知県の自宅でテレビ観戦していました。

翌17日の朝9時ごろ、当時トヨタ自動車の監督だったヤスさん(朽木泰博)から電話がかかってきます。「呼ばれたぞ」と。

追加招集の理由は、「後半に交代出場した吉田朋生(東芝)が肉離れをした」ということでした。でも彼は最後まで試合に出ていたので、まさかケガをしているとは思いませんでした。だからヤスさんから電話を受けた時には、うれしさよりも色々な意味で「びっくり」が大きかったことを覚えています。

2011年4月、僕は代表合宿に呼んでもらっていました。ところがトップリーグのプレーオフ、三洋電機戦(現パナソニック)で骨折した右手が完治せず、参加できませんでした。SHとして選ばれたのは田中史朗(パナソニック)、日和佐篤(サントリー)、吉田の3人でした。

RWCはあこがれです。だから僕は合宿には行けなかったけれど、本大会参加を狙っていました。呼ばれたらいつでも行ける体勢を整えていた。でも、ラグビー選手が特別な思いを寄せるオールブラックス戦を「テレビで見ているだけ」に終わった瞬間、諦めに変わっていました。残りはトンガ、カナダ戦の2試合。「もうないだろう」と自分の中でのRWCは正直終わった感じでした。

 

入国審査では係員付添いのVIP待遇

RWCの価値を痛感してチームに合流

翌18日には同じく今村雄太(CTB、神戸製鋼)のケガで追加招集されたバンジー(ブライス・ロビンス、Honda)とセントレア(中部国際空港)から、関空(関西国際空港)経由でオークランドに向かっていました。

入国審査ではVIP待遇。係員が付き添ってくれて手荷物検査などはスルーでした。これも驚きでした。小型機に乗り換えて、ジャパンがベースにしていたファンガレイに向かいます。空港では数人の記者が待っていました。「全力でやります」と短く決意を言って、ホテルでの共同会見に出ました。

実は僕はJK(ジョン・カーワン、当時の代表監督)と1回も話さずに代表に選ばれました。ファンガレイで初めて会いました。

JKのことはトヨタのチームメイトだったキクさん(菊谷崇、NO8、現キヤノン)らから「厳しい人。ぬるいところを見せたらすごい剣幕で怒る」と聞いていました。でも追加招集の僕にとっては恐れるものは何もない状態。そういう感じで会ったら普通でした。JKからは「ずっと見ていた。パフォーマンスがよかったのも知っている。頑張ってほしい」と言われました。

あこがれのRWCに参加できたとはいえ、日程の関係でトンガ戦にはエントリーできませんでした。トンガに負け(18-33)、3連敗になったため、最終のカナダ戦までで、バチバチやる練習は1回になりました。負けが込んで雰囲気の悪いまま練習するよりも、その期間をリフレッシュに充てることを首脳陣は考えました。僕のアピールする場所はなかった。カナダ戦は田中が先発してリザーブは日和佐。JKの判断としては当然だったでしょう。ただ僕自身は負けず嫌いだったので、内心は「僕を使ったら勝てるぞ。代える勇気はあるのか?」と思っていました。

結局、2戦ともにメンバー外でしたが、RWCは「試合に出てみたい」と思わせるほどよかったですね。

ロッカールームはトップリーグと全然違いました。選手やスタッフを含め、全員のモチベーションが高かった。

スタンドではウェーブが起こり、英語のアナウンスは試合を盛り上げていました。

あの雰囲気を味わえただけでも参加させてもらえてありがたかったです。

 

 

NZ戦はベストで臨んでも良かったのでは?

35歳になった今も、RWCは憧れの場所

 

RWCを振り返れば、テレビで見た初戦のフランス戦(21-47)はいい感じだった。ただ、この大会はチームを2つに分けました。最後は監督が決めることですが、NZ戦に関しては第1戦の結果を踏まえ、ベストメンバーで臨んでもよかったのではないかと思います。オールブラックスと試合できるのは人生で1回あるかないか。あの年は東日本大震災もありました。みんな強い思いを内に秘めていた。だからそこを汲んでベストで行けばどうだったか。何かが起こったかもしれません。向こうも最初はベストを用意していたのに、日本のメンバーを聞いて落としてきた、と報道で知りました。正しいことは分からない。でも僕は残念だなあ、と思いました。

僕は今年35歳になります。でもまだ諦めずに2015年のRWC出場を狙っています。純粋に出たいのです。

2019年のRWC時にはおそらく引退しているでしょう。でも何らかの形でサポートはしていると思います。働いているトヨタ自動車はジャパンのメインスポンサーでもあるし、当然RWCには力を入れるでしょうから。

 






















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  1. 2015/09/15(火) 04:46:07|
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kanakita

Author:kanakita
大阪府堺市立金岡北中学校ラグビー部です。部活動以外の行事なども写真&動画レポートします。よろしくお願いします。

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