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堺市立 金岡北中学校 ラグビ-部

心身ともにたくましい男子を目指します!!



第二次世界大戦末期、日本の神風特攻隊の攻撃で父親を失った英国人の遺族が、特攻隊員の遺族と面会するために今月下旬、日本を初めて訪れる。出会いは、「真の和解を果たしたい」との思いで日本側の遺族を捜しているという6月20日付本紙の記事がきっかけで実現する。英国側の遺族は「終戦から70年後に起きた奇跡だ」と話している。


訪日するのは、英中部ノースウィックに住む英海軍の退役軍人、デービッド・ヒンキンズさん(70)夫妻。デービッドさんの父親のジョージさんは1945年5月9日、下士官として乗船していた英空母フォーミダブルが沖縄沖で特攻隊の攻撃を受けたために死亡。デービッドさんが生後約5カ月のことだった。

父親に一度も会わずに成人したデービッドさんは、「カミカゼ」を恨んだこともあった。だが、自らも父親となり、互いの祖国のために自ら犠牲となった両者に敬意を抱き、心からの和解をしたいと願うようになり、日本政府に特攻隊員の遺族捜しを要請したのだ。

本紙の報道後、フジニュースネットワーク(FNN)が旧日本軍の資料を調べ、英空母への自爆攻撃を行ったのは当時22歳の黒瀬順斎(よしなり)中尉だったことを突き止め、12歳年下の弟、黒瀬宗義さん(79)=埼玉県在住=を捜し出した。

黒瀬さんはFNNの取材を通じ、デービッドさんに「大切な父親を亡くされたことに心からおわびしたい」と話し、「恨みのない心でお付き合いができるのなら幸せなことだ」と面会を歓迎する意向を示した。

こうした日英の遺族の動向が英BBC放送で伝えられて反響を呼び、篤志家が渡航費用などの支援を申し出て訪日が決まった。夫妻は22日に東京に到着し、26日までの滞在期間中に黒瀬さんと面会する予定だ。

デービッドさんは、「日本政府に手紙を書いたことが、ここまで大きなことになるとは思わなかった。黒瀬さんと私はともに大切な人を戦争で失った。その2人が会える日が来るとは驚くべきことだ。神様の不思議な力が働いているとしか思えない」と話している。









猪口拓(いのくち・たく)

生年月日:1982年10月5日。東京都出身

日本代表キャップ数:7

RWC出場歴:2007

ポジション:HO

 

▼ラグビー略歴:慶應義塾中等部→慶應義塾高校→慶應義塾大学→東芝ブレイブルーパス(2005~2011)。現在は、ブレイブルーパスの採用担当を務める。

日本ラグビーのルーツ校である慶應義塾で中学生からラグビーを始め、大学時代は慶應義塾體育會蹴球部第105代主将という大役を務めた猪口さんは、その後東芝の黄金時代にスクラム最前列のHOで活躍しました。RWC出場へのチャンスをつかんだのは、2007年春のこと。けっして器用な選手ではありませんでしたが、あきらめずに努力を重ね、世界の舞台に立ちました。RWCに出場した立場から後輩たちに伝えたいこととは。

 

 

バックアップメンバーとして、

準備を怠らなかったこその正代表入り

 

参加したのは2007年、フランスで開催されたRWCです。そのとき、HOには松原裕司さん、山本貢(みつぐ)さんがいて、僕は当初、三番手のバックアップメンバーでした。それが大会直前のイタリア合宿で貢さんが怪我をしたことで、僕がメンバー入りすることになったわけです。

同じバックアップメンバーには浅野良太さん(NEC→國學院栃木高校教員)がいて、「いつ代表入りをしてもいいように準備だけは怠らないようにしよう」と言われていたし、僕もそう思っていたので、RWC出場は諦めませんでした。怪我による繰り上がりでしたが、気持ちの準備はできていましたので慌てることはなかったです。

実は、その前年まではRWCに対する思いは強くありませんでした。東芝に入った2005年度は三冠(トップリーグ、マイクロソフトカップ、日本選手権)、翌年から僕もレギュラーになって二冠(このシーズンから、マイクロソフトカップがトップリーグのプレーオフになった)を達成したことで、プレーをよく見てもらえたところもあったと思います。

僕は身体能力がそれほど優れていないし、タックルとコンタクトプレーはしっかり行くというタイプの選手でしたから、東芝に入社した当初はトップリーグで活躍できるとは思っていませんでした。もちろん、一生懸命練習しましたが、3年ほどで芽が出なかったら早めに引退して仕事に専念したほうがいいと思っていたほどです。だから、2007年の春に代表入りし、RWCにまで参加できたというのはラッキーでした。

 

 

RWC出場はラグビー選手至上の名誉

しかし、大切なのはその後の人生

 

RWC2007の日本代表は、初戦のオーストラリア戦と第2戦のフィジー戦のメンバーを完全に分けて練習しました。フィジー戦に必勝を期す狙いでした。僕は「チーム・オーストラリア」だったのですが、練習ではこちらが押し込むことも多く、まとまりは良かったです。メンタル的にBチームだという意識はなく、日本代表として誇りを持って戦うという認識でした。

オーストラリア代表は有名な選手ばかりで、試合に出場できたことは嬉しかったです。スタジアムも満員(4万人)で、かっこいい音楽が流れ、身震いしました。スクラムに関しては重かったけれど、姿勢が高く、しっかり組める感触はありました。ただし、フィールドプレーについては、大きい上に速かったですね。僕の場合は事前に世界のトップレベルのチームとの試合経験がなかったので、それは、きつかったですね。選手交代をしない方針でしたが、それは腹をくくっていたので、心が折れることはありませんでした。

もう一試合プレーしたのは、第3戦のウェールズ代表戦です。あの期間、日本代表にいられたのは自分の財産です。RWCに出るというのは、ラグビー選手にとって一番の名誉です。僕の場合は、勢いで出場することになったのですが、RWCに出た選手として、その後が大事だと考えました。自分のスタンダードを落とさずにプレーしなければいけないし、チームが上手くいかないときも、自分がどう引き上げて行くのかを意識しました。それがRWCに出た選手の責任だと思うのです。

 

 

どうすれば日本代表選手になれるのか

夢を口にするなら相応の努力を

 

 

これから日本代表を目指す若い選手にアドバイスするとしたら、いきなり日本代表レベルの実力がつくことはないので、毎回の練習ととにかく一生懸命やることだと思います。自分から前向きに練習に取り組めば、その積み重ねで日本代表になれるのだと思います。

ところが、これが難しいのです。今、チームの採用担当をしているので、大学生の練習をよく見ます。日本代表になりたいと思っている選手もいるし、海外でプレーしたい選手もいます。では、本当にそういう取り組みをしているのかということを、今一度考えるべきでしょう。

強豪国では18歳、19歳でプロ選手になり、代表でデビューすることは珍しくありません。日本の環境は違いますが、夢を口にするのであれば、それなりの練習をしなくてはいけない。大学生と話すときは、常々そういうことを言っています。

僕も、大学の頃は目の前のことをするので目いっぱいで、やった気になっていましたが、東芝に入るとまったく違っていました。21歳、22歳で気づいていては遅い。高校、大学のレベルでそれに気づくことができれば、可能性はぐっと広がります。日本ラグビー協会が推進する選手の発掘育成プログラム「TID」の取り組みはとてもいいと思います。

ラグビーの魅力は球技でありながら格闘技の要素が多いところです。僕は球技が苦手ですが、その自分が日本代表になれた。足の速い選手、体の大きな選手、いろんな能力を持った選手が活躍できるスポーツだし、僕も、輝ける場所があったのです。

僕は中学でラグビーを始めたのですが、最初は、きつくて痛いことばかりでした。でも、きついことや痛いことを一緒にすると仲間意識が強くなる。仲間と過ごしている時間が楽しくて、ラグビーが好きになりました。

2019年に日本で開催されるRWCは、日本全体が一体となって盛り上がってくれたらと思います。渋谷のスクランブル交差点が盛り上がるような若者が見てくれる大会にしたいですね。ただし、これを逃したらしりすぼみというピンチでもある。ラグビー界全体でベクトルを合わせて取り組んでいかなくてはいけないと思います。
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  1. 2015/09/04(金) 04:58:37|
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Author:kanakita
大阪府堺市立金岡北中学校ラグビー部です。部活動以外の行事なども写真&動画レポートします。よろしくお願いします。

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